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11月29日付の朝日新聞夕刊の社会面に「拝啓 検事総長殿」という記事があった。これは法律雑誌『時の法令』9月15日号に現職の伊藤栄樹検事総長(61)が寄稿したエッセイに対する投書だった。
検事総長は昨年の夏、夫人と共に北海道を500kmあまりドライブ旅行した際にスピード違反したことを認めた上で、速度制限は現状に沿ってもっときめ細かくすべきだと論じたのである。
「およそ制限速度で走っている車は全くない。警察のパトカーも例外ではない。かく申す私もまた速度制限を守れなかった一人であると白状しなければならない。70km/hから80km/hまで走っていると前後はるかに他の車影を認めることができるが、60km/hで走る車があるとたちまちそれを頭に数珠つなぎができ、反対車線へはみ出しての追い越しが始まる。そこが追い越し禁止区間であっても同様である。後続車を対向車との衝突から守るためには制限速度を無視してスピードを上げるほかなさそうである。」
それに対して投書者は「法の番人が法律違反を公認するのはどうかと思う。罰金刑に値する」と主張している。投書者はよい市民なのかもしれないが、車は運転しないのだろう。
伊藤検事長なる方はとても正直で、日本のお役人にしては珍しく良識に富んだ方ではあるまいか。総長が書かれたことは日本中どこでもいつでも起こっている日常茶飯事であり、ドライバーなら誰でも感じていることである。この国の不合理な速度制限に大きな不満を抱き、フラストレーションは爆発寸前なのに誰も堂々と主張しない。それを天下の検事総長殿が代弁してくれたのだから胸のつかえが取れる思いであった。
伊藤氏ほどの年齢と社会的地位のあるひとが自らハンドルを握って長距離ドライブに出ることは稀である。日本の権力者たちで自らステアリングを握る人は皆無に近い。彼らには車を操る喜びも、高い自動車税、高速料金に対する怒りも悲しみもわかりはしない。欧米では大臣も社長も自分で運転していくのが常識になっている。社会を動かす権力者である政・財・官界の要人、実力者たちが私人としては一人のドライバーだから事情が違う。
もはや自動車は不可欠な道具であり、贅沢品ではない。それなのにこの国の自動車をめぐる規制・税制は昔のままとり残されているのだ。あるいは世の権力者たちの認識だけが現代から取り残されているのかもしれない。
以上が件の投書をめぐる要約である。
しかし、自動車だけではない。権力者たちの時代錯誤は……。社会を良くしていこうとするどころか、ますます悪くしているような気がする。それは柔軟な対応を失っているからだ。法律で厳しく取締るよりももっと他のものを考えてはどうか。何をやるにしても一方的に縛る。高度情報化社会を阻んでいるのもそれなのである。情報に対するそれが自動車以上であるとは考えられない。情報化の波のスピードにさえ反則切符を切ろうとする規制が存在するのだ。それも政・財・官界の要人たちがわかっていないからであろう。そうでなければ生活・レジャーの分野に至るまで、この国の不可解な事柄は理解できない。
この業界にも多くの協会・組合があるが仲間の集まりを越えていない。あえてどこにも属していないのはそれになじめず、必要もないと思うからである。そもそも同業者との付き合いは少ないが、それはそのレベルからの飛躍を望んでいるからだ。第一にソフトウェア技術者の社会的地位の向上、第二に真のソフトウェアハウスを目指す−そのために妥協のない闘いをして絶対的な力を持つことは吉正創立以来の経営理念であった。
投書の問題は『カーグラフィックス』(ニ玄社)の小林社長も同誌のエッセイで取り上げ、「いつまでもアクティブなドライバーであり、将来、世の権力者となったときに車社会をとり巻く環境を改めてほしい」と訴えられていた。
若い世代が世の権力者となった時にこそ、それに応えて全てを根本的に改めたいものである。
代表取締役 櫻井正次
(87年1月号より)