平成16年度の研究開発計画
研究開発の目的
今年度は、コンサートホールの音場シミュレーションを低コストで簡易に運用するための技術を開発予定である。音響CADソフトにより計算された反射音の情報(方向、強さ、時間)を元に、モノラル音源を2chまたは4chの信号に再構成することで、音場の再現(可聴化)が可能となる。これにより、従来のようにホール内の多くの座席で実測したデータを使わなくても任意の座席での音響特性を再現することが可能となり、また従来のような大掛かりなマルチスピーカシステムの必要がなくなるため家庭用の汎用機材を利用した音場再現が可能となる。このように、本技術はインターネットを利用した高品質な音場再現、ホールの座席選定システムの実用化に大いに貢献することが期待できる。
これまでの取り組みと解決すべき問題点
我々は、「インターネットを利用したホール音場のプリファレンス検査と座席選定・予約システム」の実用化を目指し、平成14年度から研究開発を行っている。これは、利用者一人一人の音質の好みに応じてコンサートの座席を選択でき、オンラインでチケットが購入できるシステムである。一般に座席を選ぶ基準は舞台の見え方である場合が多く、舞台に近いほど料金も高く設定されている。しかし、同じホール内であっても聞く場所によって音の感じも大きく変わることはあまり意識されていないようである。
我々はこれまでに国内の2つのコンサートホールで全座席の音響特性を実測し、音量や残響感、拡がり感などが座席によって大きく異なることを確認している。ホールの利用者(観客)が自分の音の好みを知り、自分にふさわしい座席で音楽を聴くことを可能にするためには、各座席でどのような音が聞こえるのかを体験してもらうことが必要であると考えられる。このための設備の一例が、鹿児島県の霧島国際音楽ホールに設置されている音場シミュレーション室(無響室内に16chのスピーカシステムが設置されている)である。しかし、このような設備を全国のホールに設置するには多大な費用がかかるため現実的には困難であり、また、その場に行かなくては体験できないという制限もある。そのため、我々が提案するのは、インターネットにより各地のホールの音響特性を配信し、利用者に体験してもらうための仕組みである。
ホールでの演奏を疑似体験できる装置は可聴化(Auralization)システムと呼ばれ、現在までに様々な方法が提案されている。その中でも最も多く利用されているのがマルチチャンネル方式と呼ばれ、体験者の頭を中心とした球面上の様々な方向にスピーカを置いて、音の到来方向別に再生するスピーカを振り分ける方法である。スピーカの存在する方向からの音の方向定位感に優れており特別な信号処理も必要ないため古くからよく用いられている方法である。しかし、スピーカの位置が仮想的な音源の位置を決定するため、多数のチャンネルの独立信号再生が必要であり、ハード面での要求が大きくなるという問題点がある。インターネットを利用した個人利用者向けのサービスとして運用するためには簡易なハードを利用した可聴化手法の開発が不可欠となる。
ホールでの演奏は、無響室内で録音された音楽信号(ドライソース)にホール内の反射音群(インパルス応答)を畳み込むことにより再現される。インパルス応答は、直接音に続いて到達するすべての反射音の情報(方向、強さ、遅れ時間)を含んだ信号である。ホール内の各座席における音響特性を再現するためにはすべての座席においてインパルス応答を実測する必要があるが、これには莫大な時間とコストが掛かる。そのため、実際に各地のホールを可聴化の対象とするためには音響シミュレーションにより計算されたインパルス応答を利用することが妥当であると考えられる。
研究開発内容
以上の問題点を解決するため、我々は、近年家庭用オーディオのための規格として普及が進んでいる5.1チャンネルサラウンド方式に注目し、簡易なスピーカシステムでの可聴化を目的とする。また、幾何音響解析を利用した音響シミュレーションソフト(YMCAD)により5次までの反射音を計算し、これを元に可聴化を行う。
音響CADソフトによるインパルス応答の計算
音響CADソフトでは、虚像法を利用してある受音点へどのような音が届くのかを計算できる。例として、ステージ中央の音源から客席の受音点に対して到達する反射音を計算した結果を示す(ここでは3次の反射までを対象としている)。この図から、この受音点には音源から直接到達する音(赤色)と、壁や天井に1~3回反射した音(それぞれ白色、黄色、紫色で表される)の計4種類の音が図のような経路で届くことがわかる。
図1:虚像法により計算された反射音到来方向の例
反射経路の計算で特に時間がかかるのは、次反射壁面の選択と反射経路上での遮蔽壁面の検出である。YMCADでは次反射壁面や遮蔽壁面の候補を絞りこむことによって、計算時間を短縮している。虚像法による反射経路計算では反射次数を1上げるごとに壁面数倍の計算時間が必要になるが、この方式を使用すると、200面の3次反射に5秒、4次反射に250秒と50倍程度の増加にとどめることができる。これは1反射次数につき4倍程度高速化できることを意味する。反射次数が増すごとに高速化の割合が増大し、従来の方式に比較して、3次反射で60倍、5次反射で1000倍程度の高速化が可能になる。
虚像法の計算では、何次反射の音が、どのくらいの時間で、またどのくらいの強さで受音点に届くのかも合わせて計算することができる。これらの情報をわかりやすくグラフにしたものがエコーダイヤグラム(インパルス応答)である。マルチチャンネル方式による可聴化では、このインパルス応答をスピーカの方向別に分解して再生することで各方向からの反射音が合成された音場を再現することになる。
図2:虚像法により計算されたインパルス応答の例
5.1チャンネルサラウンド方式による可聴化手法
5.1チャンネルサラウンド方式とは、リスナーの前方中央(C)、前方左右(L、R)、後方左右(LS、RS)の計5チャンネルのスピーカと低域用のサブウーファー(0.1チャンネルとカウントする)によって立体音響を再生する方式である。下図に示すようなスピーカのレイアウトにより、左右の定位に加えて前後の定位も再現することが可能となり、前後左右の音の拡がりが生み出される。
図3:5.1チャンネル方式のスピーカレイアウト(参考文献 1)
虚像法により計算されたインパルス応答は各反射音の方向情報を含んでいるため、反射音の方向別に5チャンネルのスピーカから出力する信号を再構成することが可能である。まず中央のスピーカからは、直接音成分を出力する。ホール内において、リスナーは音源の方向を向いて座っていることを仮定すれば、直接音は常にリスナーの正面から到来することになる。
次に、ホール内においてリスナーの前方から到達する反射音群は、前方左右のスピーカ(L、R)から出力する。同様に後方から到達する反射音は後方左右のスピーカ(LS、RS)から出力する。ここで、前後それぞれ左右のスピーカの出力信号には、各反射音の方向に応じて時間差とレベル差を付けることにより、反射音の到来方向をリスナーに知覚させることが可能となる。
図4:虚像法で求めたインパルス応答から5.1チャンネル再生信号の変換方法の概念図
以上の手法に基づいて、ドライソースから5.1chサラウンド対応のサウンドファイルを作成するソフトウェアを現在開発中である。これによって、ホールの設計図面から各座席の音場をシミュレーションし、インターネットで配信することが可能となる。
参考文献
1.Multichannel surround sound systems and operations, AES Technical Council Document, AESTD1001.0.01-05.