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研究テーマ:生体音響の多次元リアルタイム分析システム

※平成16年度革新技術開発研究事業に申請した研究開発の提案書


研究の背景と目的

臨床診断において、聴診は心臓疾患や肺疾患の発見に非常に有効な手段であることが認識されている。しかし最近では、CTやMRIなどの画像診断に頼りすぎる結果として聴診技術の低下が指摘されており、聴診教育の充実や診断支援技術の確立が望まれている。

聴診音を分析して診断に役立てたいという要求は医療現場において非常に多く、これまでにも様々な試みが行われているが、未だ実用化には至っていない。問題は、非常に重要な情報を含んだ生体音を効果的に分析する技術が開発されていないことと、現場で簡便かつ正確に分析を行う機器が存在しないことであると考えられる。

本提案は、精密な音響分析技術により生体が発する様々な音響信号(心音、呼吸音、血流音など)をリアルタイムに分析して診断に役立てる「生体音響分析装置」の開発を目指すものであり、異常の早期発見や症状の監視などに大きく貢献するものと考えている。また、聴診は大掛かりな設備を必要としないため費用もかからず簡便にできることから、インターネットの進歩により今後の普及が望まれている在宅健康管理や遠隔医療においても有効な手段となることが期待できる。


これまでの取り組みと現状の問題点

我々は、平成10年度、JST(科学技術振興事業団)の支援により、神戸大学、安藤四一教授と共同で「地域環境騒音の計測・心理評価システム」の研究開発を行った(JSTへのリンク)。この研究開発は、環境騒音に対する人間の心理評価(うるささ、不快感など)を計測するために、従来の騒音レベルのみの評価とは異なる手法を取り入れた計測システムを構築するものである。本システムは、騒音に関する物理量を時々刻々リアルタイムで計算し、これらの物理量にもとづいて騒音に対する心理評価や騒音源の同定を行うものである。その成果はWindows上で動作する音響測定・分析ソフトウェア(DSSF3)としてインターネットを通して販売しており、国内外で高い評価を受けている。

その後、この信号分析技術のさらなる可能性の追求や応用分野の拡大のため、スピーカやアンプ等のオーディオ機器の測定、音声信号の分析、モーターの異音調査、心音の分析等を行い、その成果をインターネット上で公開してきた(参考:音響測定入門)。その中でも我々が最も注目しているのが医療分野、特に生体音響と呼ばれる心音や呼吸音など生体が発する音響信号の測定と、その多次元的な分析・診断技術である。この分野への関心は予想以上に高く、我々も多数の医療機関から問い合わせを受けている。その多くは音響測定ソフトを利用した聴診音の分析や診断支援への応用の可能性を探るものである。

現在、我々は複数の機関と共同で患者の心音データの取得、分析を開始しているが、現状の測定分析方法の限界を痛感している。問題は、1)非常に重要な情報を含んだ生体音を効果的に分析する技術が今だ未開発であること、2)現場で簡便且つ正確に測定・分析を行う機器が存在しないことである。

1)の問題に関しては、従来の音響分析は周波数にとらわれすぎて、時間軸上の分析能力が不十分であったことが挙げられる。生体音は特に時間的な変動が大きく非定常な信号であり、継続時間の短いパルス性の信号 (数ミリ秒単位)から緩やかに変動する呼吸成分(数秒単位)まで多様な信号を含んでいる。このように大きく異なる時間スケールの信号を的確に捉えるためには、我々がこれまでに開発してきた高時間分解能の分析技術に加えて長時間・低分解能の分析を同時に行う必要がある。さらに複数の信号源が混在している聴診音から目的の音源のみを抽出する技術が必要となる。

2)の問題に関しては、従来から心臓の動きを監視する手法として心電図や心音図があるが、これらは主にモニターに映し出される波形の乱れ(心拍数やその規則性)を目で見てチェックする目的で使用される。ここからさらに詳細な情報を得るためには診療の際に記録したデータを後から解析する必要があるため、非常に手間がかかり、また聴取部位や姿勢によって変化する情報を見逃している可能性があると考えられる。近年ではこれらの信号を自動で分析するソフトウェアも幾つか販売されて いるが、その多くは事前に分析区間や周波数などの詳細な設定を行う必要がある。そのため、不適当な設定のまま測定を行い重要な情報を見逃してしまう例が見受けられる。そこで、本研究においては、信号が持つ固有の周期に応じて分析時間や周波数帯域、解像度を自動で設定するアルゴリズムを導入することで、診療現場において簡便かつ正確に測定・分析を行うシステムの開発を目指す。このように、簡便な操作で検査が可能であり、且つ即座に分析結果がわかるシステムは臨床研究のために必須であると考えている。


研究開発内容

従来の音響分析方法をそのまま生体音響に応用した場合、見落とされる情報が多く、以下に挙げる問題点があると考えられる。本研究ではこれらの課題を解決するため、これまでに培ってきた音響分析技術を導入し、さらに、新しい分析技術の開発を予定している。


1.異なる時間スケールの信号解析:生体音は時間的な変動が大きく非定常な信号であり、継続時間の短いパルス性の信号や緩やかに変動する呼吸成分など様々な時間周期の信号を含んでいる。新技術では1ミリ秒オーダーの短時間・高時間分解能での分析から数秒オーダーの長時間・低分解能の分析を組み合わせることによって、より詳細な音響信号の時間変動を捕らえることが可能となる。

図1に聴診マイクで記録した心音データの解析例を示す。同じデータでも分析時間を変えることで得られる情報が違ってくる。まず短時間・高時間分解能の分析によって、心弁閉鎖音の強さ、ピッチ、音色といった音質面での詳細な分析が可能になる。図の解析例では分析時間を0.01秒とすることで異なる弁による閉鎖音が分離でき、それらの動作タイミングの分析も可能になる。また、後で述べるように、それぞれの動作音の音量や音の高さ、響き成分の持続時間といった音質情報の時間変化も同時にリアルタイムで分析され、異常音の検出に利用できる。

また、長時間・低分解能の分析によって心臓の状態(心拍数とその規則性の強さ)のリアルタイムモニターが可能になる。図に示すのは、サンプリング周波数を下げてデータ数を落とした心音データについて分析時間1秒で計算された音圧波形である。先ほどのような詳細な波形は得られないが、心拍の周期(心拍数に相当)とそのゆらぎに関する情報は十分に含まれていることがわかる。この波形に対して自己相関関数を計算すると、心拍周期に相当する周期的なピークを容易に検出することが可能である。このピークの時間(周期)とその振幅(一拍ごとの規則性の強さを表す)をプロットしていくことで、心臓が規則正しいリズムで動いているかどうかをリアルタイムで観察することができる。

 

図1:心音データの解析例


2.分析時間と測定周波数の自動設定:1で説明したように、生体音の分析には測定対象や見たい情報の種類によって適切な分析時間を選ぶ必要がある。しかし、従来の測定システムは測定対象に対してあらかじめ分析時間を設定するために煩雑な操作が必要であったため、不適当な設定のまま測定を行い重要な情報を見逃している可能性がある。新技術では、信号が持つ固有の時間周期に応じて分析時間や周波数帯域、解像度を自動設定するアルゴリズムを導入することで、複数の信号を同時に分析することが可能となる。


3.人間の聴感に対応する音響特徴量の分析:従来の音響分析は周波数スペクトルの特徴を求めることが主であったが、スペクトルを表現するパラメータのなかには聴感上は重要でないものも多く含まれている。新技術では相関分析に基づいて、音に含まれる特徴を、その音を人間が聞いた場合に極めて近い形で捕らえることが可能である。音の強さ、音の高さ、響き成分の持続時間といった音質情報と、音源の位置、移動などの空間情報を詳細に分析することが可能となる。

図2に人工弁置換(機械弁)した患者の心音を周波数スペクトルと自己相関関数によって解析した例を示す。人工弁の閉鎖音は通常の心音とは異なり高調波を多く含んでおり、カチッ、カチッ、という時計の針のような音がすることが多い。しかし、この音の聞こえ方は同じ種類の弁を置換した患者であっても大きく異なるため、患者の体格や健康状態、弁の機能状態を反映しているものと考えられる。

ここで挙げた2つの例は、このような高調音がはっきり聞こえるものと聞こえないものである。右側の心音は聴感上明らかに高く明瞭なピッチを持っているが、通常のスペクトル解析ではその違いが明確にはわからなかった。一方、これらを自己相関関数によって解析すると、音質の違いが明確に現れた。自己相関関数の周期はピッチ(音の高さ)に対応しており、周期が短い(波形が細かい)ほど高いピッチを持つ音であると言うことができる。またそのピークの振幅はピッチの明瞭性(自己相関関数のピークが大きいほどはっきりとしたピッチが聞こえる)を表し、右側の心音の方が明瞭なピッチを持っていることがわかる。

図2:人工弁音データの解析例


4.生体全体を対象とした分析:従来は心音の測定の時には呼吸を止めなければならない、おなかの音がしないよう注意しなければいけない、といった制限があった。新技術では、音源の位置情報や周波数情報等を利用して混合音から対象音を分離する技術、複数の測定対象を同時に比較するアルゴリズムを導入することによって、特定の部位だけに着目するのではなく、生体全体にわたっての分析を目指す。


以上のような生体音響のための新しい信号分析技術を既に開発済みの音響分析ソフトウェア(DSSF3)に随時導入していく予定である。さらに、複数の医療機関との共同研究によって本システムによるデータの蓄積、分析を行い、問題点を改善していくことで、早期の実用化を目指す。